新しい企業内容開示制度の枠組

2010年6月13日 | By 縄田 直治 | Filed in: 開示制度.

企業内容開示制度つまりディスクロージャが議論されるときには、証券市場の存在を前提に、発行市場向けの開示(有価証券届出書)と流通市場向けの継続開示(有価証券報告書)の開示内容のあり方が議論されることが多い。それは証券市場の健全な発展を目指すことを意図しての制度設計であり、立法者は証券市場が健全に発展すれば社会全体がうまく機能するという一つの前提が置かれている。

言うまでもなく、証券市場の発展は資金循環を円滑化し、経済発展をもたらしている一方で、複雑化による内容の不透明な取引が市場に大きな悪影響を与えたクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)などの負の影響や管理コスト、開示コストの大幅な上昇により新興企業がなかなか証券市場に参入できない障壁が生まれているとの指摘もある。

こういった問題を規制当局は証券取引に関する開示制度の枠内で対応しようとしているが、この動きには限界が見え始めている。そこにはいくつかの理由が挙げられる。

一つには財務情報に大きく傾倒した開示規制は財務情報が詳細複雑になるほど分かりにくくなり、かといって全体の財務情報としての枠組みが変化するわけではないので、あまり情報としての価値が高まっていない。「開示の充実」という言葉がよく使われるが、「充実」とは詳細化と同値なのかどうかは冷静になる必要がある。本来は、分かりやすくすることが充実のはずだ。もうひとつは、有価証券報告書などの書類からは、企業の「善」を知ることはできないという枠組みの限界がある。有価証券報告書には、事業の概況や設備投資、研究開発活動などが掲載されるが、いずれも投資家向け情報としての視点で開示される。虚偽の開示は許されるものではないが、他方、虚偽でない限り投資家にとって有用な情報とはどのようなものなのかという視点を織り込むことは、情報の画一性をもたらすことから規制としては織り込みにくいという難題がある。情報が投資家向けである限りは、投資家が中心となってそれを利用するが、その結果は投資家視点での利害が反映されることになるから、投資家視点での「善」しかもたらされないという問題がある。最近は「透明性」という言葉もよく使われているが、語感が先行している嫌いがあり、言うほどにその実現は難しい。いくらラジオの筐体を透明なスケルトン構造にしても、中の部品は所詮一つの部品に過ぎないわけだが、鉛はんだを使わないとか、再利用パーツが使われているといったことは、部品としてどうかということよりも企業の「姿勢」としてそういうラジオを製造販売しているということのほうがよほど重要な情報である。

誤解されたくないのは、投資家視点での情報開示や投資家視点そのものを悪であるかのように主張する論調があるが、投資家は投資活動を通じて企業を直接間接に評価しているわけであり、企業の存在評価という点では、消費者による商品の購入活動と同じ機能を別の面から実現しているに過ぎないので、むしろ、問題は投資家にあるのではなく証券市場規制だけで社会善を実現しようとしている風潮に気が付いていないことにあるのではないか。そもそも投資情報であっても、どこまでが有用でどこまでが不要な情報なのかは、投資家によっても異なっているわけであるから、有価証券報告書などの開示書類だけでその外枠を決めてしまうのは無理であろう。

中国の工場の煤煙が黄砂とともに日本に飛散して健康被害を及ぼすような例を挙げるまでもなく、企業活動が地球全体に影響を及ぼすようになった今、世界的な枠組みでの企業活動を理解するフレームワークが求められている。企業が個々に目指す「善」(すなわち、存立意義)はどこにあり、それを支える諸活動はどういったものであり、活動によってどのようなサービス、商品が提供されており、サービス・商品の品質レベルや内容・成分はどのようなもので、それらの動きを統治する仕組みはどう機能し、その結果、社会にもたらす正負の影響はどういうことなのか。これらの情報が綜合的に世の人々によって利用・判断されなければならないのだが、情報の適時性、適正性の担保、入手利用可能性の確立と改善、情報の更新頻度などの問題が、証券規制のみならず、消費者保護、環境問題、規制のあり方などに横串を通して議論される必要がある。

それは、インタネットという情報開示手段、世間とのコミュニケーション手段が確立されたからであり、多面的情報の流通という点で全く新しい視点での枠組みの確立が必要になっている。しかし、その方法は未実現ではあるものの、おそらく従来のように規制当局によって成し遂げられるものではない。官僚機構が利益分配を調整する統治機構によって動かされる限り、規制組織はその時代に適合する方法論を考えることが役割であって、未来を検討することは期待されていない。それは市民の投票行動の反映である。むしろ規制当局は最低限の情報レベル規制を行うだけで、地球市民という立場からの動きが出てこなければならないだろう。我々自身が「開示規制」という枠組みから抜け出なければ、企業内容開示は現下の枠組みの中で複雑化するだけで、これ以上の発展はできない可能性があるというのは、単なる杞憂だろうか。

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