解釈に幅のある制度

2007年4月21日 | By 縄田 直治 | Filed in: 会計原理, 財務報告統制.

制度を作る際に悩むところが、原理原則を決めてあとは運用者に任せるという方法と、具体的な細目までを定めて事細かに規定するという方法がある。民主主義社会における考え方は、国民を縛る法律は前者、権力を縛る法律は後者という考えが、あるべき姿なのだろう。

例えば、刑法などはどういう行動が「罪」に値するのかはきちんと決めていただかないと、勝手に権力者に「解釈運用」されてしまっては、暗黒社会になってしまう。税法など国民を縛る法律は、会社に余地のある部分は法の不備なのだから、国民側に便益があるように解釈すべきで、法文を曖昧に作って通達で運用を縛る方法は、民主主義社会ではかなり問題のあるやり方である。

そういう意味では財務報告統制は微妙な位置づけにある。

本来、内部統制は自由主義経済において企業経営者が戦略遂行するにあたってリスクとなる要素を分析してそれをコントロールする仕組であるから、経営者のリスク認識や統制の導入運用によるコストパフォーマンスに対する判断を加味した結果である。したがって、「内部統制を構築しなければならない」という規定はプログラム規定であり、細目を法によって定めるべきではない。

日本の財務報告に係る内部統制の評価・報告に関するルールは、基本スタンスとしてそうなっていると思う。

しかし、一方でそれを運用する金融商品取引法の側は、最悪、懲役刑までも振りかざして内部統制の構築を強制させようとしているので、企業側も細かい基準を定めてほしい(つまり、法に抵触しない必要最低限のことをする)という意向を持つようになる。究極は、プログラム規定としての考え方と、刑法としての考え方と両方を内包した、極めて問題のある制度であると言える。

飛行機や原子力発電所の安全基準は、必要最低限の原則にしたがって法律を作り、それを守れば安全が保障されるという考え方なのかもしれないが、他方で運用する企業側は効率性との関係で常に悩まされることになる。「安全は全てに優先する」のは当然だが、概念的にそうであったも実際の現場での運用はそうも言っていられない状況はいくらでもあるだろう。

企業活動そのものを対象とする内部統制は、対象となる活動が「自由」という原則があるため、全適用企業に共通に必要最低限の基準を定めることは難しい。企業側が、それを決めろという主張もわからないではないが、せっかくの自由な制度なのだから、「実態に応じた」運用をしたいものだ。結果的に、「実態を歪めた適用」をしている企業が増えれば、結局、官憲側に付け入る隙を与えてしまい、終いには自縛に陥るのは眼に見えている。

また法の建付けの問題として、経営者による経営監視手段としての内部統制の不備そのものを罰するのではなく、経営者による不法行為を罰するべきなのではないか。

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