学校に対して子供の教育についてあれこれやかましく言うモンスターペアレントとか、商品やサービスにけちをつけて会社を脅すクレーマーなどが問題になっている。
組織側はきちんとした対策を採っていくしかないが、一方でそういうことに振り回されるのも組織活動の生産性を著しく落とすことになりかねない。
東芝の不正会計案件は、経営者に業績の重圧をかけられた社員がやむなく不正会計に手を染めたという構造が読み取れるが、経営者自身も市場というところから重圧を受けている。それをやや遠巻きに見ると、経営者に対するガバナンスが機能していなかったということになるが、いずれも経営者が絡む会計不正の構造を一般的なロジックで説明したに過ぎない。
世の中は輪廻転生で循環していると考えると、経営者に重圧を与えている市場はどのように東芝のガバナンスに対して作用したのだろうか。そもそも巨額な損失が発生するような取引を分かっていながら会社が受注せざるを得なかったという問題は、単にガバナンス機能の問題だけで済ませられるのだろうか。市場が経営者にプレッシャをかけてそれを要求したのだろうか。でないとすれば経営者が感じるプレッシャとは幻想なのだろうか。
ここ20年くらいの間の議論として、何でも市場の仕組みに任せておけばよいという考え方と、市場にも規制が必要だという考え方とが並存してきて、答えは出ていない。いまの市場の構造を与件とした議論をこのまま進めてよいのかという意見は、ほとんど聞かれない。
たとえばバブルも市場の仕組みだし、それが崩壊するのも市場が持つ自滅の仕組みである。それに振り回されている経済社会に生きなければいけない人たちは、いまは手に負えないモンスターと化した市場の問題と責任とをお互いが押し付けあっているようにも見える。人間が生んだ市場に人間が飲み込まれる構造は、高度な人工知能を有したロボットたちに人間社会が乗っ取られるハリウッド映画にいかにもありそうなネタである。
われわれはいったいどのような世界を目指しているのか。市場というモンスターに本当に「神の見えざる手」が働いているとすれば、その神の意思とやらを誰が「神の意思」と判断しているのか。市場のガバナンスを考えることは神の意思ではなく人の意思を市場に入れることである。それが市場を規制するかどうかという二元論ではない。