巨星墜つ

2014年6月7日 | By 縄田 直治 | Filed in: 監査と監査人.

森田松太郎先生 
平成26年5月31日17時に永眠された。享年85歳。
6月4日(水)の通夜から5日(木)の葬儀は築地本願寺にてしめやかに執り行われた。
先生の顧問先であった企業関係者だけではなく、幅広いお付き合いがそのまま現れた多くのご参列をいただいた。

先生に初めてお目にかかったのは87年の会計士二次試験合格して監査法人に入った時にごあいさつをいただいた時だった。

監査というのは会社のビジネスが存在するところにはどこでも必要になってくる。会計士は必ずビジネスの起こっている現場に行かねばならない。宇宙開発が進めばこれからは月に棚卸しに行かねばならないことも出てくるだろう。

色々とお話された中ではこれが一番印象に残っている。新人を前に夢のある業界を語られたのだと思うが、常に目線を帳簿ではなくビジネスの現場に置けという意味では監査の本質を突いた言葉だった。

自らはかつて商社マンとして化学肥料などを扱われていた経験もあり英語が堪能にも拘らず、

これから人工知能が発達してくると、監査の判断はコンピュータがやってくれるようになるかもしれない。また、英語も自動翻訳の時代が来るので通訳など要らなくなるだろう。

というお話をされ、まるで英語は勉強しなくても良いような印象を与える話もされていた。しかし今思えば、話の受け方の問題で、そういう時代がいつ来るかはわからないのだから、努力しなさいという意味であると悟ったときは、自分の愚かさを恥じるときでもあった。

私がパソコンを監査に使いたい旨をお願いした当時、事務所内には数台のパソコンがあるだけで、まだワープロ専用機が全盛の時代であった。名刺にテレックスのアドレスが入り、タイプライターも普通に使われていた頃である。

これからは手で監査調書を作っている時代ではない。支援はするから、いろいろ研究してみてできることをみなに教えてやってくれ。

いまだにご要望には応えきれていない。

夕会というのが開催されたことがある。何人かが遅刻した。

ビジネスの基本は約束事だ。その中でも最初の最初にする約束が会う時間の約束なのに、それを守れないようではビジネスの世界ではやっていけない。

銀行の監査で不良債権の話をしているときに、手元の資料をもとにお話をしたところ、

そういうことは内部の資料だけで情報を得るのではなく、経営者が取引先についてどう考えているかを話をしなければならない。

その他、私が海外オフィスでの勤務を希望した時には、若干飽きっぽくなっていて変化を求める私を励ますように、

同じような監査を3年続けて飽きが来ないようではダメだ。視野を広く持って色々なことに挑みなさい。どうせ行くなら中途半端なところではなく一番勉強になるNew Yorkに行きなさい。

私の駆け出しの頃は既に朝日会計者の創業者のお一人として、また朝日新和会計者の創立の立役者として既に大先生であったが、当時はいまのように役員室のような類のものはなく、お部屋が我々の作業机の直ぐ前にあった。先生ご不在の時には大きな机をいいことに昼休みに囲碁を打ったりと、とんでもないことをしていた。思い起こせば相当に騒がしかったことだろうが、叱られたことは一度もなく、出入りされる際にはいつも気さくに声をかけてくださった。お時間のあるときには我々と同じテーブルについて色々な思いや著名な方にあったことなどを語られたことが、今となってはとても勉強になっていた。とにかく肩書などは全く関係なく気さくに誰とでも分け隔てなくお話くださるので、「偉い人」という感覚を持たなかった。

先生はアルコールを一切飲まれなかった。その分、早寝早起きを徹底され読書と著述を朝の時間帯にされていたと伺っている(私などはこの時点で既に落伍者に近い)。それに関係なく酒席には積極的に出席されていた。

最も印象に残っているのは、毎年お正月になると杉並のご自宅に部門のみなでお伺いして奥様のお料理をいただきながらお正月をお祝いしたことだ。いつのまにやら規模が大きくなりすぎてご自宅に入ることができなくなってからは、外部の会場を使うようになったが、今の時代では理事長になった方のご自宅に普段着で家族揃ってお伺いして酒を飲んで騒ぐなどということは考えられない。先生は飲まれなかったが、我々の馬鹿話をさも楽しそうにニコニコと笑っておられたのを思い出す。

この世代の方にしては上背があり、外国人と並んでも全く見劣りしなかった。むしろ、気さくなお人柄がかえって器をさらに大きくみせるのか、欧米の方もとても尊敬と親しみを持たれていたので、その後のアンダーセンとの提携も一気に進んでいったのではないか。

組織においてはあまり細かいことは言われなかった。というより言われた覚えがない。忘年会などでのお話は常に「未来志向」であり常にこれからの世の中はこうなるから我々はこうしなければならないというお話であった。理事長を退任される時も「リタイヤ」というイメージは全くなく、またよくあるように思い出話をされるのではなく、監査法人以外の仕事もいろいろとされていたこともあってか、退職後にこういう形で社会で活躍したいというお話ばかりで、ご退任の挨拶というよりはこれから新しい仕事をされることへの抱負を語っておられた。あっけにとられるばかりで、退職の寂しさよりも現役としてまだ同じ(ではないのだが)世界で活躍されご指導いただけるという感覚のほうが強かった。

未来志向のお話の中でも、これからは「知識」の時代であるということは早くからおっしゃっておられ、晩年のピーター・ドラッガーに会って話をして感銘をうけたことをいつになく興奮して話されていたが、それはナレッジマネジメント学会(何もしていないが私も会員である。)を創設して理事長になられた形になっている。その後、自分が一橋ICSに入ることになるのはまさにナレッジの世界で第一人者である野中先生の薫陶を受けたいと考えたからであり、今思えばそれは森田先生の「仕込み」が大きかった。

お通夜、葬儀の間、色々なことを思い出しては涙が溢れてきてしかたがないので、弔問客をご案内しては気を紛らわしていた。思い出せば思い出すほど、心の深いところで影響を受けた恩人であり、山のように高く大きな(大きすぎる)目標でもあった。その高いところの先生はこちらが麓でウロウロしている隙に、さらに高い天まで昇られてしまった。

先生、どうぞ安らかに、そしていつまでも私達を見守りください。

合掌

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