会社を支配するのは誰か  日本の企業統治

2012年11月30日 | By 縄田 直治 | Filed in: ガバナンス.
会社を支配するのは誰か 日本の企業統治 (講談社選書メチエ)
吉村 典久
講談社
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おそらく、サブタイトルが原題だろう。
疑問詞の表題をつけるのは最近の出版物不況の対応策なのだろうが、内容を歪める形でタイトルをつけるのは回避すべきであろう。
ただ、本書の場合、表題と内容に若干のズレがあるものの、期待は裏切らなかった。

序章は「金」という小説(19世紀にパリで発生した不動産投機と株価操縦の事件)の紹介から始まる。
次いでロンドンの南海貿易会社のファンド事件、21世紀初頭の米国のエンロン、ワールドコム、そして日本の大王製紙、オリンパスへと話が展開し、いずれも「コーポレートガバナンスの問題」として紹介される。
著者は、コーポレートガバナンスを他の引用等も含め次のように定義する。

決定された目的に沿った企業経営が行われるようにするため、「誰が会長、社長、CEO(最高経営責任者)、COO(最高執行責任者)などの最高責任者を選び、そのパフォーマンスを誰が評価して、どういう咎で、そしてどういう手続きで、追い出せるか」(ドーア2006、2p)にかかわる方法、制度と慣行・・・・究極には・・・「いざというときに、企業の持続的繁栄の障害となっている経営陣のクビをすげ替える」(富山2010)ことができるか否かが、企業の統治機能が作用するか否かを分かつものとなる。

この、追い出し、クビのすげ替えに着目するところが、一般に言われるモニタリング(監視機能)とは違った本書の特色となっている。

第一章では、さらに、神の見えざる手という言葉を遺したアダムスミスが、決して資本主義信奉者ではなくむしろ胡散臭い制度であると考えていたことが紹介され、読者の脳を揺さぶりつつ、日本の永年の同族経営の象徴であった出光の株式会社観を示すことによって、株主の期待に応えるという形で実現されるというコーポレートガバナンス観に疑問を呈するのである。特に企業統治の「問題」としてよく出される社外取締役の割合が低いことをもって、他の先進国の後塵を拝しているといって、日本の経営の不透明感の原因とするのは疑問を呈している。企業統治のスタイルと資金調達との間に何らかの相関関係があるとすれば、中国の株式市場の成長は説明がつかないと言う。株主は利益獲得の可能性が高いところに金を出すのであって、ガバナンスに金を払うのではない。

第二章で、日本の企業での労働組合や中間管理職がトップの暴走を防いできたという事例として、三越の岡田社長解任事件、ヤマハの社長退陣事件、セイコーインスツル服部家御家騒動などいずれも広く知られた事例を紹介しながら、巷間言われる「社外取締役が経営を監視する」という考え方と一線を画する。ただし、従業員(労働組合)の力によるトップの交替は、相当危機的な状況が明らかになってから発動され、またその結果として会社がどうなったかと言う点についての評価が難しいとしている。

第三章では、時代を遡って日本の「組織」についての歴史的事例を扱う。すなわち武家や商家における「主君押し込め」や、忠誠心のある部下ほど積極的に上司に忠言することが求められたことなどが取り上げられる。近江商人、伊勢商人、葉隠、仙台伊達家、岡崎水野家など事例は豊富にあるようだ。

第四章では、米国で企業統治の模範とされたBig3のGMが米国政府から資本注入をうけGovernment Motorsと揶揄される羽目になった事例と、同じBig3でも創業家が依然として支配権を持ち経営が安定しているFordとが比較され、必ずしも米国の企業統治構造が巷間言われるほど確固たるものではないという話題に入る。そして最近のIPO事例としてGoogleやFacebookが種類株式の発行により創業者が支配権を持ったまま上場し、これらの会社の理念が株主価値の最大化というコンテキストではなく、社会にとってどういう存在であるかという次元で考えられ経営がなされていることが紹介される。

第五章では、最近の日本でのガバナンスの象徴として取り上げられ、その後、業績が悪化してかつての勢いが失われたソニーの「失効」役員制度の話題となる。そして社外取締役が多すぎて却って意思決定が遅れたりする弊害にも触れられる。

最後に、ではどういうガバナンス構造がよいのかと言う点については、著者は何も触れていない。むしろ、「お手本を追う」ことなく「実験を繰り返す」ことを奨励している。特に日本企業の特性として、何かよいと言われるものがあったらあたかも流行に乗り遅れるなと言わんばかりに形をまねて終わってしまうところについては、「キャッチアップの発想が色濃い」と手厳しい。

立場をわきまえず本書を評してみよう。

何がよい経営であるかを考えるのが経営学であるとすれば、経営学が学問として難しいのは、何を「よいもの」として取り上げればよいのかと言う座標軸がないことであろう。はじめに「よい事例」があるわけではないこと、座標軸としての財務状況、従業員や顧客の満足度、製造物の性能などいろいろな観点があるにしても、その「よい事例」を生き物である会社を対象とする限り栄枯盛衰があって、GMやソニーの例を挙げるまでもなく、今日まではよい事例であっても明日はどうなるかわからないということが言える。
したがって、ケースから学べることが必ずしも汎用的な解にはならない。しかしコーポレートガバナンスが経営者を軸として大きく変動するものであるとすれば、従業員やメインバンク、社外取締役や顧客の行動に着目することも大切だが、やはり当事者である経営者を座標軸とし、環境をどう捉え、どう判断し、どのような結果となったかを見ていくべきであろう。そもそも経営管理サイクルとはそういうものなのだから。

企業(組織)経営の良し悪しはあくまでも歴史の中の一時点を拾い上げての議論にならざるを得ないという意味では、今までの3年間を「いまここ」で捉えるのと、10年後に捉えるのとではまた解釈が異なるところが面白さでもある。
ちょうど、歴史を紀伝体で叙述するか列伝とするかの違いかもしれないが、本書の研究においても過去の事例を拾い上げるに当たって、「統治者」を軸とした研究に進んでもらえると、もっと面白くなるのではないかというのが、率直な感想であった。もちろんその片鱗は本書の随所で見られるところではある。

とはいえ、日本の経済が停滞する中で、日本を活性化していく中心となるのはやはり企業であり、そこでのコーポレートガバナンスの問題を改めて考えるには好書であることは否定のしようもない。従来の日本の研究には見られない着眼点を持つ著者の今後の業績に期待するところだ。

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