英語の勉強

2010年7月11日 | By 縄田 直治 | Filed in: 監査と監査人.

最近は、監査法人でも普通に英語のできる人が多くなってきている。会計基準がIFRSで統一化され、企業活動が世界中で展開されれば、情報の利用者とこれに伴うリスクが世界中のどこで発生するかわからない時代に、監査だけが国内に閉じてよい理由はない。そういった中、日本内外で共通語である英語を使って仕事をする人が増えることはとてもいい傾向だ。

大胆に割り切った言い方をすれば、閉じた日本社会に海外の知識を入れるためには、少数の優れた人が外国語を学んで日本にその知識を日本語で伝播してくれれば事足りる。海外の人たちが日本に来て、ごく少数の人に何かを教えるのもそれでいいかもしれない。少数の知的エリートを梃子にして知っている人を増やすこと、つまり知の量的拡大は、明治以降の日本が目指した欧米に追いつけ追い越せという施策と結びついた。しかし知のストックがあって、それを一方的に流すだけならまだいいかもしれないのだが、今は知を創造する時代となった。言い換えれば、答えのない内容の異なる新たな知を生み出すことが求められる時代である。これには人と人との知の衝突があって初めて新たな価値観や方法論が生み出されるという、弁証法的な場が必要とされる。場には手段としての共通言語が不可欠であるが、通常ではおそらく英語が選択されるのだろう。

英語読める書けるという言い方は、英語という言語を目的語とした表現だが、英語読める書けると言えば、あくまで手段としての英語である。目的語としての英語が議論されている限り、「英語ができる人に英語の仕事を」というステレオタイプはなくならないだろう。10年以上仕事をしている人に英語の文章校正までさせるのは組織として恥である。組織は、英語ができる人は外から雇えばよいが、英語で仕事ができる人はどうしても内製化しなければならない。そうしないと、英語で仕事ができる人は組織での成長機会がなくなり、早晩、その組織から去っていくことになり、組織自体の成長も覚束無くなってしまうからである。

もはや海外提携ファームのネットワークに組み込まれてしまった日本の大手監査法人は、「が」から「で」への施策転換をしなければ、日本人の思考や理解がまったく反映されない手続だけの監査が増えるだけになってしまうのではないかという危機感がある。

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