JR福知山線脱線転覆事故:鉄道本部長起訴

2009年7月11日 | By 縄田 直治 | Filed in: ガバナンス.

2005年4月のJR福知山線(宝塚線と書く記事もある)で起こった脱線転覆事故では107人もの死者その他500人以上の重軽傷者が出るという実に痛ましい事故であったが、神戸地検は2009年7月8日に当時の鉄道本部長で現社長を起訴するという判断をした。

会計や監査の問題を扱うこのサイトからするとやや異色のエントリーとなるし、法律の専門家でもない自分が論ずるには余りにも論点が多すぎるが、鉄道というシステマティックに動くものに好奇心があることや、内部統制における取締役の責任という観点からは、粉飾事件があった場合の経理財務担当取締役の責任とまったく同じ問題が議論できると考えるので、あえてのぞんでみたい。

事故は、遅れの発生した通勤電車が現場の急カーブに差し掛かる際に減速しなければならない(※人的統制)ところ、日頃から「日勤教育」により定時運行をきつく言われていた(※統制環境)とされる運転手が減速しなかった(※人的統制の運用エラー)ことから、列車が遠心力により脱線して大惨事となった(※リスクの顕在化)とされる。直接には減速による危険回避行為を怠った(とされる)運転行為に原因があるが、運転手は事故で死亡したため証言を得ることもできず不起訴となっている。

しかし、鉄道は安全に必要な条件が整わなければ運行できないというフェールセーフ(※補完統制)の考え方で設計されているため、万が一、運転手が居眠りをするなどの事態を想定し、例えば一定の速度以下で走らなければ列車を減速したり停止させるATC装置(※IT統制)などによる追加的安全対策が採られることになる。

報道記事によれば、起訴理由としては、現場の路線付け替え工事をした際にカーブ半径が短くなってより危険性が増し、こういった事故が予見できた(※リスクの把握)にもかかわらず、それを防止するためのATS装置の設置を怠るという、安全対策義務の懈怠があり、当時の安全対策を統括する常務取締役鉄道本部長にその業務上の過失責任があるとするものである。

「安全輸送の確保」は、鉄道に限らず旅客運輸業全てに共通する最優先の内部統制の目的となるだろう。そして取締役の任務懈怠を問うのであれば、現場の線路付け替えと運行ダイヤ改正に伴うリスクの発生と、これへの対応策とが、実態としてバランスしていたかどうかが論点となるはずである。さらには、それらを実効ならしめるガバナンス(会計であれば会計諸規則や監査制度、審査制度などになるが、運輸の場合は法的な安全対策義務やこれを評価する監督官庁の監視機能)が機能していたのか、さらには具体的な統制活動(安全対策)が行われていたかどうかがポイントとなろう。

1.リスクの把握とリスクへの対応

急カーブでのスピードが危険なことは、素人でも分かることである。まして、規格で動いている鉄道であれば、カーブの半径と列車重量とスピードとの関係で、安全係数が定まっていることは容易に想像がつく。もしその危険性が明らかに予見できるのであれば、まずは法律の手当がどうなっていたのかを議論しなければならない。

報道を見る限り、危険が予知できたはずなので安全対策としてATSを設置すべきであったという説明になっているので、法律で定められているものではなさそうである。そうなってくると危険の「発生可能性」が予知できたかどうかという議論もさることながら、危険の「程度」(magunitude)まで含めた判断は、鉄道会社に委ねられているということになる。だからと言って安全対策を懈怠してよいということにはならないが、少なくともプライオリティは法的義務ではなく経営判断が認められているということになる。つまり、どのようにリスクを把握しウェイト付けをしていたかという点が問われるべきであるので、ATSを設置していなかったから安全対策を怠ったというのは、部分に全ての原因を求めたあまりにも短絡した論理である。

私の知る限り、ATSは危険地域の少し前のところで装置が起動すると運転席に警報を発し、運転手が一定時間経っても警報を停止しなければブレーキが作動するようになっており、運転手が警報を解除すると「ピコピコ」という音がなっているだけで、列車を停止させる機能自体は解除される。つまり、運転手が定時運行に焦っていればいるほどATSを解除してそのまま減速しない可能性も否定できないので、対策として万能でも万全でもないのである。むしろATSをつければ安全という考え方自体が、最も危険なのではないかとさえ思える。つまり、ATSの限界も踏まえて、事故の危険をどう評価したのかが、最も知りたいところなのである。

2.統制環境

会計においては「利益達成ノルマ」が会計不正をもたらす最も強い誘引と考えられているが、「定時運行」とそれを強制する「日勤教育」は安全におけるそれに相当するのだろうか。日本の鉄道の運行時刻の正確さは世界一だというが、それを誇ることに何の意味があるのだろうか。あるとすれば、ダイヤを守ることが旅客の安全と利便に直結するからであり、定時運行はそのための手段である。急いでいるからブレーキを踏まないというのは、目的と手段が入れ替わっているので、そういった教育は誤っている。

日勤教育とはどういう内容なのか、どういう人が受けているのか、誰もが受けているのか特定の人に偏っているのか、偏っているとすればそういう人を運転手として使っていいのか・・・・といった評価がどのように行われていたのか。報道からは軍隊の如き精神教育の側面が強調されているが、安全教育というものがどのようにおこなわれていたのか、全体像がさっぱり分からない。

「私は経営者として利益目標を達成する責任が株主に対してある」と考える経営者がいるが、それは間違っていない。しかし、それを理由に架空売上を計上したり、資産評価を怠ったりするのは、善良なる管理者としての別の責任を全うしていない(株主や世間に対してうそをつく)ことになるので、経営者としては失格である。期末決算の直前になって「なんとしてでも利益目標を達成しろ」と言わなければならない時点で、統制環境はほぼ崩壊している。

3.情報の伝達

路線の付け替えは、JRの輸送力をアップして周辺の私鉄に対する競争力を維持するための戦略的工事だったらしい。それ自体は、一企業の判断としても否定されるものではない。工事がどのような意思決定過程を経て計画・設計・施工・検査されたのか分からないが、工事予算とともに安全対策がどのように議論されたのか、裁判の過程でも明らかにして欲しい。

「カーブが危険であることを知りながら・・・・」というフレーズには、鉄道本部長個人としての責任よりも、当時の取締役や意思決定者が、その危険性をどのように察知しどのように評価しどのように対応したかという点を明らかにしなければならないだろう。

例えば、現場の簡略図面を見て、「この半径がもたらす危険対策をどのように考えているのか」といった質問がなされたのかどうかは、重要な注意義務が履行されたかどうかを判断する材料となろう。仮にそういった質疑がなかったとすれば、それは(危険性を訴えなかった・・・・かどうかは不明だが)鉄道本部長個人の責任というよりは、取締役会が機能していなかったということになるのではないか。仮に個人責任が問えるのであれば、不作為よりも作為があったときでなければならないはずで、そうでなければ、不作為の相互監視を前提とする会議体そのものの存在意義は何処にあるのか明らかにすべきであろう。

4.モニタリング

安全対策にせよ財務報告統制にせよ、すべての施策についてはその適切な履行があってこそ功を奏するものである。また、当初のリスク評価では気がつかなかった別のリスクが出てきたりするなど、統制は「これをやれば終わり」ということはない。統制目標は組織目的の追求の中で常にその履行をモニタリングされていなければ、弥縫策に終わるか、形だけに終わってしまう可能性が高い。

運転手の間では、常時、「あそこのカーブは危険だ」といった路線の癖に相当する情報が交換されている(「ひやりはっと」の共有は安全教育をしている会社なら、当たり前の活動である)はずだが、そういった情報はどのように安全対策責任者に届くようになっていたのだろうか。また、他に安全対策上の瑕疵はないかをどのように判断していたのだろうか。例えば、ダイヤの組み方などにどう反映されていたのだろうか。

まとめ

以上のように、財務報告統制と関連して考えると鉄道安全の問題であっても同じような観点で論点が整理できる。事故はあってはならないが、事故を防止する一番の方法は事故から学ぶことである。上記のような問題が裁判の過程ではっきりと見えてくると、もっと深いところに組織の「風土」とか「体質」のようなものがあるような気がしてならない。

付け焼刃の対策をしてもその体質が変わらなければ、同じ失敗を繰り返す可能性がある。亡くなった方は戻ってこないが、偶々事故に遭わなかった同時代に生きる者としては、同じような不幸な出来事をもたらさないようにする努力をして供養するしかない。

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