会計士よ、自信を持とう。

2012年1月29日 | By 縄田 直治 | Filed in: 監査と監査人.

会計不正事件があるたびに、監査制度の強化が叫ばれる。「強化」とか「充実」という用語で語られることが多いが、監査の世界は外からはとても分かりにくいので致し方ないのかもしれないが、では具体的に何をどうするかは議論されず、専門家に委ねられることになる。ここは少し近視眼的になりかけている議論から離れた話を試みたい。

決算の適正性は、経営者のアカウンタビリティと監査人の意見とによって担保されるという「二重責任の原則」は監査論の教科書の第一章に書かれている原則である。言うまでもなく、どちらが欠けても開示制度の適切な運用は担保されないが、こと決算の適正性となると経営者のアカウンタビリティは必要条件であり、監査人の正当な注意は監査における必要条件であると同時に開示制度における十分条件だ。換言すれば、経営者のアカウンタビリティが存在しないところに監査制度は成立しえないことは、監査の対象が存在しないところに監査意見が表明されるはずもないことを考えれば自明である。

社会正義を担保するための制度設計において考慮されるのは、社会的に払う犠牲と効果との関係である。道を歩く人が皆、悪人だという前提に立てば、それは自分も含めて悪人であるという前提で制度設計をすることを許容しなければならない。したがって、道路の要所要所に関所を設けて警察官が荷物検査と身体検査を行うようになるかもしれないが、その時に自分だけ例外扱いを求めることは許されない。犯罪発生時に行われる検問はその一つの形であり、人々はそれに協力する。身近な例では、飛行機の手荷物検査であろう。テロやハイジャックなどの犯罪による影響は国家をも巻き込み、時に多くの人命を犠牲にすることになるため、航空会社の手荷物検査は厳格であるべきだという社会的コンセンサスがあるからこそ、人々は我慢してそれを受け入れている。しかし、それを一般道路や日常的に利用する鉄道で導入すると、相当の反発を食らうだろう。方法論的限界のみならず、そういった相互不信を前提とする制度設計に人々は反発を覚え、それがさらに社会的不信感を増長し、際限なく不信が深まることを、特高警察などの歴史を通じて知っているからである。

監査制度の「充実強化」は今まさにこの議論と等価の議論がなされている。勿論、制度に欠陥があれば正されるべきだが、欠陥の有無を決めるのは要求されるレベルに応じてである。そして要求されるレベルとは、社会的に払う犠牲との比較考量が必要となる。

  • 経営者は監査報酬や内部統制評価にかかるコストは下げたい(メリットが小さい)と考えている。
  • 監査人は、今の監査時間では社会的期待には応えられない(期待ギャップを埋められない)と考えている。
  • 世間は、監査制度の充実強化が必要であると考えている。
  • 監査制度はもともとは経営者と投資家との間の情報の非対称性を埋めるための開示制度の「補完」である。情報の非対称性は開示によって埋められるのだが、中でも成果分配の公平を期する前提となる財務情報の信頼性については、特に開示情報と内部実態とを外部者の立場で比較して信頼性を判断して初めて成立する。財務的結果がなぜそうなったかの説明はあくまでも経営者によるもので、会計制度や監査人ではない。つまり財務情報の根拠のところでの企業内容についての情報の非対称性が大きければ大きい(複雑な会計制度と不十分な説明)ほど、財務情報への相対的期待が上がってしまい、過剰な期待をもたらすことになる。端的な例では、将来キャッシュフローに基づいて現在価値を求めるなど、将来キャッシュフローの前提となる戦略や経営施策にコンセンサスがなければ、意味のない数字になりかねない。なにゆえそういった情報が開示されない傍らで会計情報だけにその機能を負わせようとするのか理解に苦しむ。

    第三者の目で見た企業実態の開示については、それこそ上場企業といっても一地域で地道に活躍する会社から、地球的規模で活動する会社まであるわけで、一律的に制度的担保をするには限界がある。経営者側の主体的な情報開示と説明とが求められている中で、制度としてどうあるべきかを検討することは必要ではあるが、一方では当事者の主体的関与がなければ、いくら制度を「強化充実」したところで片手落ちである。社会の信頼を維持するためにはお互いが信頼する努力、される努力をしなければ、信頼社会は成立しえないのだ。情報を出すと責任が発生するから出したくないという企業側の論理は、制度的に情報を開示させる議論を生み、結果的に責任範囲を広めてしまうという、鶏卵議論を招いている。将来情報については、どうやって経営者側の責任を解除していくかという点について、制度設計上の議論をすべきだろう。

    企業それぞれの開示の在り方というものを制度とは離れて具体化しなければならない時代が来ている。おそらく「士業」と称される弁護士とか会計士などがこの議論には大いに貢献すべき立場であろうと思う。会計士の方々には、自らが社会的公器であるという自覚と自信を持って制度設計と運用と改善にあたろうと申し上げたい。そしてもっといろいろな機会や場で発言しようではないか。それが本当の世間の期待であり、それに応えられないのが期待ギャップなのではないか。

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