専門家の限界

2009年9月25日 | By 縄田 直治 | Filed in: 監査と監査人.

最近、監査調書について妙に細かいところに気を使わなければならなくなっている。
たとえば、売掛金残高の実証をするのに、特定項目を抽出してテストを行ったら、抽出しなかった項目がなぜ問題がないかについてきちんとドキュメントしなければならないことになっている。

理屈を言えば、残りの項目に問題がないこととは抽出サンプルが十分であったという裏返しなので、監査人はそれをもって抽出が不十分であったと言われることを恐れ、対応せざるを得ない。畢竟、行きつく先は本質的にリスクのある取引を抽出したかどうかよりも、無難に抽出しているかどうかに神経が行くことになる。

手続が必要十分であったかどうかは、何をやったかを見れば専門家にはわかるものである。もちろんそこには見解の違いも出てくるかもしれない。しかし心象形成にあたって、それをわざわざやらなかったことまで含めて監査調書で説明しなければならないのかは、現場で戸惑いを最も感じるところである。突き詰めれば、やらなくてよいことはすべて説明しなければならなくなり、まるで「悪魔の証明」を求めているようだ。

医者のカルテもそうだろうが、監査調書も、素人がみてわかる程度に書かねばならないのか、専門家が見れば分かる程度に書けばよいのか、議論が分かれるところだ。しかし医者は患者の病気を的確にとらえて治療方法を決めること、監査人は虚偽記載を検出して正しい決算を開示させることに、本来の職業的意義ないし本質があるはずである。それが、本質よりも形式に主眼が置かれると、いずれ本末転倒なことが起こらないか心配で仕方がない。

こういう時代であるからこそ専門家の限界というのをきちんと明確にしておかねばならないのでは。本当にこの業界はこのままでよいのだろうか。日本は戦争を始めてよいのだろうかと国民が思いながらも大東亜戦争に突入して行った時の、危うい「空気」を感じている。

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