職業的懐疑心

2007年7月29日 | By 縄田 直治 | Filed in: 監査と監査人.

英語ではProfessional Skepticismという。平たく言えば「勘と経験」(そうではないという向きもあるらしいが)である。経験から得られる知見は侮ってはならないと思う。「機械の調子が悪い、いつもと少し音が違うような気がする」などは典型的な例だし、打音検査なども人間の聴感覚に頼った検査方法である。

特に「怪しい」とか「危ない」といったものは、第六感が先に機能して、それを言語化することで初めて人に伝えることができる。言語化できないときには、「何となく変ですねぇ」となるが、その「何となく」が具体的に特定されるには時間がかかることだってある。

いくらサンプリングツールが発達して便利になっても、取引をサンプルする際に、監査人の経験よりもサンプリングツールのほうが監査に役立つサンプルを提供してくれるとは思えない。監査人はわけも分からずサンプリングツールを使うことを要求されているが、これは自分の納得感よりも他人への説明を重視した結果だ。

監査手続とは、「十分な心証」を得るために「必要な手続」を行なうもので、「十分な手続」までは要求されていないはずだ。手続選択は常に効率と効果とのトレードオフに直面しているからこそ、リスクアプローチという考え方が出てくる。心証とは懐疑心から派生した「リスク」を打ち消す根拠であり、懐疑そのものを否定したという事実である。

昨今は、監査基準に手続を詳細に定め監査人が「十分な手続」を実施したかどうかを「責任」という形で問う考え方もあるようだが、監査人が「言われたことやる」というのは、いたずらに監査コストが増え資本市場に不要な負担を強いるだけでなく、本来なら職業的懐疑心がより強く働いている部分に対してよりリソースを投入するということができなくなる。

もっと判断を尊重すること、そして監査の品質を見る人もそういう視点で見なければ、「決まったことをやっているかどうか」という視点は誰にでもできるアマチュアのすることである。

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