損益計算書無用論

2009年8月6日 | By 縄田 直治 | Filed in: 制度会計.

時価会計とか時価主義とか(本来は両者は異なるものだが)言われて久しいが、その特徴は純資産の額を重視する点に現れる。貸借対照表項目が時価を示すことの正当性は、その計上項目自体の時価を示すこと(手段)以上に、ある時点での時価資産と時価負債の差額として計算される正味の純資産時価が、その時点での企業価値を表現している(目的)との幻想に基づいている。

それは、損益計算書における期間損益概念の軽視と、これに代わる「その他の包括利益」が純資産の部で株主資本よりも大きな位置づけを占めていることに如実に現れよう。
そこでは期間損益計算の累積としての株主資本にはほとんど意味がなく、その計算根拠となる純損益計算など等閑に付する扱いとなる。

純資産の部は、経営者の予測、主観、判断、見積が多分に伴うため、経営者の違いによりかなりのブレが発生することが予想される。そこで登場するのが、客観的といわれるキャッシュフロー計算である。現金が入った、出た、残った、という記録は事実に基づくため、経営者の判断等が現れないとされる。

いまや企業会計は、経営者の主観の固まりとしての財政状態計算書(これは将来のキャッシュフローを表現するとされている)と、味気ない過去の事実としてのキャッシュフロー計算書とで構成されるようになるだろう。そこでは、株主資本やその増減を示す損益計算書は過去の遺物となり、せいぜい「売上高」が重要参考情報としてキャッシュフローに注記されるくらいだろう。

しかし企業会計は、いったんそういう原点に回帰してみるのもよいかもしれない。そして時価に翻弄されて存在が小さくなってしまった期間損益計算をすることの意義が、改めて見出されるはずである。企業の業績と、経営者の成績とが、はたして同じ意味なのか異なる概念を含んだものなのか、共有要素があるのかないのか、その辺が議論されるはずである。そして監査の前提ともなる企業会計が拠るべき「取引事実」の重みが再確認されるだろう。

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