会社は誰のものか

2007年6月2日 | By 縄田 直治 | Filed in: ガバナンス.

という議論は古くて新しい議論だ。永く議論されているところを見るとおそらく答えがないのか命題の立て方が誤っているかのどちらかである。

このシンプルな疑問を紐解くには、少なくとも3つの要素を明らかにしなければならない。つまり、「会社」とは何か、「誰」という言葉の指す主体、「もの」の概念だ。

会社とは法人登記され、法律上の人格を認められた権利主体である。したがって、何かの共同作業をする団体ではあっても法人登記しなければ会社とは言えないし、逆に俗にペーパカンパニーと言われようが法人格があれば会社は会社である。 

次に「もの」という概念である。少なくとも「もの」であるからこそ、これを誰が所有するかという問題が生ずるわけなのだが、日本語は実に安易に「もの」という言葉を使うため、「もの」概念が崩壊すると「誰の」という言葉も消える可能性がある。つまり「会社とは何か」という命題を解明することがこの問題の本質を明らかにすることになる。

自由主義社会では私的自治の原則に基づき、法律の範囲での行動は制約されることなく自分の意思と責任において自由に行なえる。この意思と責任を個々人が行使していく時に法人格ある社団を通じて法律行為とする概念が会社であり、これら行動やそれに伴う約束事を具体的に記載したものが定款から始まる会社の諸制度・諸規程である。

したがって「会社は誰のものか」という命題は「会社の意思はどう形成されと責任は誰が負うか」と言い方に換言できる。

株式会社形態においては、一株一票の原則と株主有限責任の原則により、株主には会社運営の責任は限定されている。むしろ経営者に意思形成を委任するという形になっており、金銭的にも出資の範囲でしか責任を負わない。つまり「株主は法人格の意思決定に際しての議決権を有している」とはいえても会社を所有しているとは言えない。
これは支配的議決権を有していても同じで、株主は議決権を支配できても参加者の行動までは支配できない(経営者は辞任することができるし従業員にも職業選択の自由がある)し、経営者とて、どんな株主の意思とはいえ反社会的行動に出ることはできない。

一方、経営者の経済的責任は会社財産を毀損させないことにある(増殖させることではない。これはあくまでも委任者の意思により、目標利益という責任が追加されているだけである。)。また、経営者の社会的責任は会社組織の運営において自己の意思を共同体の意思として実現させるよう自ら作用することと、意思の実現過程や結果に伴う副作用(たとえば環境汚染などの社会的費用の発生など)を可能な限り抑えることである。

個々の従業員は会社の意思を実現するに当たってある機能を担うことになるが、経営者の考える作用と副作用を考慮しながら個人の責任範囲を実行していくことになる。

つまり、会社とはある意思を実現するためにそれを共有する人たちが資金、道具、技能、知識などを持ち寄って協力行動する場であり、これにより同時に個人に集中するリスクを分散させることで反対に大きなリスクを伴うことでも果敢に挑戦できるようにするための場であり、これを明示的に制度化しあるいは暗黙(社会的常識や規範として、あるいは、意思そのものを含めて)に共有する個人が集まった場という概念である。

したがって、会社は社会的な意思形成と実現の場として、各人の意思とその実現行為に付随する責任(つまりリスク)との微妙なバランスの中で存立している共同体で、偶々ではあるが法人という法的形式を選択することが、バランスの形成に大きく寄与しているに過ぎないということになる。すなわち、関係性を「もの」として捉えること自体に無理があることから、「会社は誰のものか」という命題の立て方は誤っているのである。

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