壊れた窓ガラス

2007年4月7日 | By 縄田 直治 | Filed in: リスクの分析と評価.

前のニューヨーク市長ジュリアーニ氏は、夜間に地下鉄にすら乗れない街の治安回復を公約に掲げて市長に当選し、見事に治安回復を図り、今ではNYはアメリカではかなり治安のいい街になっている。

警察官の給料を上げたり増員したりしという直接的な対策も大きいが、背景には、それまでの犯罪摘発が殺人などの重罪を中心に行なわれていたのを、窃盗や置き引きなど比較的軽い犯行の摘発に重点に置くようにしたことが功を奏したといわれている。

このときに適用された考え方が「壊れた窓ガラス」という理論で次のような思考である。

1.路上駐車された乗用車がいわゆる車上荒らしにあって窓ガラスが割られてしまったまま駐車されていたり、住居侵入された家屋の窓ガラスが割られたまま放置されている。

2.それ自体が周辺に治安の悪い街、犯罪の多い街という印象を与える。またそういった罪を犯してもつかまらないというメッセージを与える。

3.自然と犯罪を忌避する人が街から離れていき、また犯罪を犯す人が集まってくる。

4.軽い犯罪(壊れた窓ガラス)が更に増え、それに伴って重い犯罪も増えてしまう。

5.更に治安が悪化するという悪循環。

つまり、軽い犯罪であってもむしろ摘発を強化することは、犯罪に対して強い態度で臨むというメッセージが込められるので、市民の犯罪に対する意識も高揚し、犯罪者にとっては居辛い街になり、結果的に治安が回復したのである。

さて、この「壊れた窓ガラス」理論は、財務報告統制でどう活用されるだろうか。

制度が期待しているのは、財務報告における重要な虚偽表示の防止であるため、まずは重要な不正行為・誤謬を防止発見する態勢を整備する必要があることは当然である。しかし、それをもって軽微な不正誤謬は見逃してよいということには決してつながらない。つまり重要な不正誤謬を防止発見する前提条件として、たとえ軽い不正誤謬であっても厳しく対応するという「経営者の姿勢」がなければ、いくら形だけ内部統制を整備運用しても、働く人の意識レベルには「このくらいだったら」という気持ちが芽生えてしまうのである。それは経営者の「この程度なら・・・」という気持ちがそのまま反映されていることになる。

会計監査では、検出事項を扱う際に最終的には未修正事項の「重要性」の判断に応じて監査意見に反映するか否かが検討される。そこで言う重要性とは、財務情報がその利用者の判断を誤らせることがあるかどうかというレベルでの判断であるため、結果的に決算に適正意見がついたとしても、監査過程での個々の検出事項が不正とか誤謬に相当する行為ではないと言っているわけではない。

そこを勘違いして、「監査が通ったから」という理由で社内を通す態度は、監査という機能に対する大いなる誤解・曲解であるだけでなく、壊れた窓ガラスに目を背ける経営者の態度の表れではないか。経理担当者が「このくらい・・・」と言っている態度は、確かに数字だけのレベルでは「このくらい・・・」であることも多いのだが、それは経営者が言わせていることになるし、そういう経理担当者と監査人との鍔迫り合いの過程を経営者は知る由もなく、結果のみ「監査人がOKしました」として報告されるだけだ。そのような状況は、たとえ「統制活動」が有効だったとしても、会社の「統制環境」「報告と伝達」のレベルとしてはかなり低い位置にあると考える必要があるかもしれない。

経営者の一言は重いのだが、監査人は「経営者による評価」の監査結果をどのように経営者に伝えるべきなのか実に悩ましい。

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