恩師亡くなる

2014年6月22日 | By 縄田 直治 | Filed in: 会計原理.

つい先日、仕事で大変にお世話になった大恩人の森田松太郎先生が亡くなり気持ちが塞いでいるところに、今度は学生時代に会計学を教わり、卒業後も何かとご指導を仰いだ大恩師森田哲彌先生の訃報(2014年6月8日享年84歳)である。

自分の人生に多大な影響を得たお二方がわずか十日間に立て続けに鬼籍に入られるとは、誰が想像し得ただろう。まるで神仏が何かで自分を試そうとされているのかとさえ思えるが、あまりに酷である。

森田哲彌先生との最初の出会いは、大学のゼミナールであったが、そもそものきっかけは会計士試験にあった。その頃、先生は大学の図書館長職にありながら、公認会計士試験の二次試験委員も兼ね、大変多忙な日々を過ごしておられる中で、一橋で教鞭をとっておられたのである。

私は会計士試験の勉強を始めた頃には、特に会計学などに興味はなかった。とはいえ、簿記を一通り学んだ後は、会計学の領域の勉強に入っていく。これは巡り合わせなのだろうが、試験委員の関連論文等を読むことになるのだが、それまでに読んだ本とはまったく違う何かを感じたのが、森田先生の論稿だったのである。早世された岩田巌先生(「利潤計算原理」)の愛弟子であり、ドイツ会計学を究められた先生の論旨は明晰で美しささえ感じたのである。実はお顔さえも存じないまま迷うことなく森田先生のゼミに入りたいと考え、当時法学部であった私は転部試験まで受けて商学部に籍を移したのだった。

ゼミに入るときには教官室に指定された時間に集まる。先生のお部屋は、大学図書館の正面を入って左側の3番めだったと記憶する。入ゼミ希望者9名が揃ったところで、「全員合格。でも会計士試験に受かりたいなら私のゼミには入らないほうがいいよ。」とおっしゃった。その意味するところは申すまでもなく、大学の学問を試験対策という即物的な目的に堕すなということである。もとより先生のゼミを希望して転部までしたので取り下げる気持ちは毛頭もなかったが、その言葉はあらためて試験などさっさと終えてきちんとした会計の勉強がしたいという私の強い動機付けにもなった。これは、会計士試験合格した際に周囲の人から「あまり嬉しそうではないね」と言われた所以の一つでもある。既にゼミに入った時には会計士試験は就職対策の一つでしかなかったのである。
7月の試験受験直後にゼミがあり、先生に報告に伺ったところ、「簡単だったろ」と笑われ、返答に窮したのを思い出す。

合格直後のあるゼミの時間に先生がこう尋ねられた。

公認会計士は英語でなんというか知っているよね。Certified Public Accountant をそのまま訳すと「公認公共会計士」となるはずなのに、なぜ「公共」という言葉が抜けているか分かるかな?

勿論、分かるはずもなく、教えを請うた。

会計士の「士」という字には「サムライ」という意味があるだろう。弁護士も同じだ。サムライとは公のために働くものだから、「士」という文字の中に「公共」という意味が自ずと入っている。だから、公認「公共」会計士とは言わないのだ。

当時は一つの知識としてしか受け止めておらず、まだその重さには全く気が付いてはいなかったが、仕事の経験を積めば積むほど、これが私の監査人としての矜持の始まりだったかもしれない。

先生の講義は教科書がない。ひたすら黒板に板書されて話をし続ける方法で、教えるということよりは、説明をどのようにすればいいのかということを、常に考えておられた。ある時、教室に向かわれる先生と失礼にも同じ時間に階段を昇ることになり、先生に話しかけたところ、こちらを遠い目で見られて心ここにあらずという様子だった。後で大学院生に尋ねた所、講義前は色々と考えておられる時間だということがわかった。

先生はお酒とタバコを嗜まれた。したがって先生との思い出は、学問よりもお酒のほうが多い。
タバコは私の在学中に一時期やめられたことがあるが、お酒は特に日本酒を好まれた。また居酒屋よりも小料理屋のようなお店がお好みであった。

先生のお酒の飲み方はお燗したものをコップで飲まれるのである。コップで飲むと自分の飲む量がわかるかららしいが、「お猪口は冷めるからなぁ」。私の今の飲み方はまさにこのスタイルを踏襲している。

ゼミ初日には、「ゼミが終わったらまっすぐ帰ってはならない。必ずどこかに寄って仲間で飲みなさい。午後の時間にゼミが設定されている意味を考えなさい。」。また夏のある暑いゼミの日は、「今日はさっさとやめてビールでも飲みに行こうや」、冬の寒い日に少し遅れていらしたときには、「焼き鳥に鍋なんていい組み合わせだねぇ。でもこの寒いのによくビールなんか飲んでられるなぁ。」とこられた。ゼミの飲み会は必ず「お先に」と帰られるのだが、いつも勘定が終わっていたものである。

本は特定の本に偏らず色々な本を本で見なさいと言われた。本の乱読も「勉強が進めばいい本に行き当たるようになる。いい本を探すのも勉強だ。」ということで、特に推薦図書はなかった。ゼミでは、飯野利夫「財務会計論」を教科書には使ったが、あくまでも議論のタネ本であって、一般的な会計の理解のために用いただけで、ゼミの議論では、その制度や処理の裏にある「何か」を議論するのであった。つまり、制度趣旨を単に理解するのではなく、会計がそもそも何を正義として成り立っているのかということをとことんまで考え抜こうという姿勢である。我々は「会計哲学」と読んでいた。

また卒業式後の謝恩会でも、3つの教えの中の一つに「お酒は大いに飲みなさい。特に20代のうちは嫌な先輩であってもそれがお付き合いの勉強になるし、後になるほどそれが財産になります。」ということだったので、存分に実践した。他の二つは、「英語の勉強はしっかりしなさい」「異性とは遊びではなく真剣に付き合いなさい。」であるが、こちらは劣等生である。

英語の勉強は今の時代を予想するかのように強調された。先生は、英語よりもドイツ語が堪能であった。

おそらく一年365日のうち先生が断酒される日が2日だけあった。それは夏休みに行われるゼミ合宿であった。場所は白馬岩岳の「セブンロッジ」というスキー宿である。なにせ夏のスキー場なので我々学部と院のゼミテンだけで他に客は一人もいない貸切状態。そこで朝から晩まで発表のための準備や議論をするのである。いつものゼミとは違い、3,4年生混合のチームとなりそれぞれ先生から与えられたテーマで一緒に集い議論する。「商法計算規定の体系について」「連結財務諸表の資本概念について」などのテーマがあった。また、自由テーマというのもあり、各チームで論題を出して議論を誘うのである。ゼミ関係者の年代を問わず森田ゼミの思い出話をすると必ずこのゼミ合宿が出てくる。おそらく勉強時間としては、いつものゼミの時間以上だったかもしれない。ロッジのお子さんがまだ小さい頃、ゼミ合宿を見て「大学には行きたくない。あんなに勉強するのは嫌だ。」と言われたという逸話がある。
ここでも最終日の夜はすべてを終えて宴会を始めるのだ。先生も2日の断酒が明けてそこでも大いに飲まれるのだ。

卒業論文のテーマには意外にも会計に関係なくてもよいとのことだった、ただ二つの条件があった。一つは英語の原書を参考文献に含むこと、もう一つは困ったときには院生の指導を仰ぐことだった。自分はオフバランス取引をテーマに選んだ。当時はまだデリバティブという言葉はなかった。
論文原稿をお渡しするのは年始が過ぎたあたりだったか。その際には、自分宛てのハガキを添付することになっていた。論文を評価された後にそのハガキが送り返されてくる。そこには「受けとりにいらっしゃい」とだけ書いてあるのだ。そしてご自宅にお伺いしてご指導いただいた論文を受け取りに行かねばならない。玄関先で原稿を返却されるときが最も緊張した瞬間だった。後で袋から原稿を取り出すと、先生は論文の原稿をすべて精読され、誤字脱字や疑問点には付箋を付けられてメモまでくださっていた。過去に論文不合格という話はなかったようだが、自分としては会計士としての出発点として位置づけていたこともあり、学部の業績としてきちんとしたものを残したいと考えていたので、これはとても感激した。企業会計審議会の答申なども必ず自分で目を通して言葉を選ばれたそうである。いつか、「キャッシュフロー計算書」という言葉は何か日本語に置き換えたかったのだが、時間がなくてかなわなかったというお話があった。

その卒業論文は全てのゼミテンの例外なく先生の研究室に保管されていた。本来は大学の図書館に収蔵されるはずなのだが、閲覧可能な状態にして我々が恥をかかないようにとのご配慮である。先生が一橋を退官される際には図書館にまとめて収蔵されたと伺った。文字に残るものを丁寧に作りなさいというご指導の一環でもある。

在学中に一度、先生の久我山のご自宅にお招きいただいたことがあるが、卒業後は毎年お正月には先生のお宅にご挨拶に伺っていた。1月2日がお誕生日で大学関係の方々が集まる日、そして2日がゼミ生が入れ替わり揃う日という不文律であった。
奥様にご用意いただいたおせちは珍味ばかりで、それを肴に旨い日本酒をいただくのである。最初は徳利で温燗につけられるのだが、そのうち「面倒だから常温でいいだろ」とおっしゃり、一升瓶からお銚子に移したものを傾けながら飲み続けるのである。ここはコップ酒ではなくお猪口であったが、先生はいくら飲まれてもあまり変わることがなく少し上機嫌になられる程度で淡々とお話し続けられるのであった。話題は昨今の会計事情や企業内での会計実務の実態が多かった。ひと頃は企業会計審議会の会長も務められていたので、その裏話なども伺うことが出来た。それなりに緊張しているためか、数時間飲み続けてもひどく酔うことはなかったが、ご自宅を離れて久我山の駅に向かうときに、身体から力が抜けて酔いが回るのだった。

一橋を定年退官された後は日本大学で教鞭を執られるようになったが、その後もしばらくはお正月になるとご自宅に伺っていた。いつも話題は会計とか監査ばかりであったが、そこでお話いただくことが自分にとっては初心に帰るよいきっかけとなっていた。ただ、金融商品会計基準が出来た時か商法が会社法にかわったときだったかに、「これで、君が大学で学んだことは何も役に立たなくなったなぁ」とおっしゃった。その意味するところは、制度が大きく変わったから勉強しなおせという意味でもあったが、一方で私自身が本当に勉強していたのであれば、世の中がどう変わろうとも根底にあるものは変わらないはずだという信念も窺えたのである。先生は一橋退官後に日本大学に教職を得られたが、日大退官後も雑誌等で勉強されていて、どういう質問が飛んでくるかとヒヤヒヤものであった。

おそらく最後にお目にかかったのは、10年位まえのお正月ではなかったか。子供を連れてごあいさつに伺ったら、いつもと様子が違って、卒業生がお伺いしている雰囲気がなかった。後で別の方に尋ねたら、お正月のご準備が大変だということで遠慮することになったことを私が知らなかったようだ。お孫さんが生まれた頃だったので、ご家族でのお正月をゆっくりと過ごされたかったのかもしれない。2年に1度のペースで「森田会」が開催されてお世話になったゼミテンが集まって近況報告などしていたが、これも同じ頃を最後に開催されなくなった。

一番残念なのが、先生は本を出版されたなかったことだ。会計士試験の委員が終わった頃から、少しずつ会計学の基本書の原稿を用意されていたのだが、いつまで待っても出版されなかった。還暦の記念出版とか一橋退官記念とか、事あるごとに話は出ていたが、その間の会計制度の変遷は目まぐるしいものがあり、きちんとした書物にまとめることが難しかったのかもしれない。もとより「時流に乗じた」ことがあまりお好きではないはずなので、それが落ち着いたらとお考えだったのか。お正月にお伺いした時に「先生、例の本はいつ出るのですか。」と伺ったら、苦笑されながら「酔が覚めたな」と返されたので、それ以上は聞けなくなった。

遂にその著述は世に出ることなく先生はこの世を去られた。思えば、お元気なときに失礼を承知の上でもっと催促しておくのが会計を職とするゼミテンとしての礼儀であったかもと悔やまれる。

お通夜 平成26年6月11日18時
ご葬儀 平成26年6月12日12時
いずれも中野区宝仙寺にて。

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